イスラエルの思い出

~師・髙田三郎先生と共に~

 

声楽家 合唱指揮者 鈴木茂明

 

「日本には日本の音楽史があるべきであり、日本人のために自分の一生を使おう」と、20代で決意した髙田先生は、あらゆるジャンルの作品を残されたが、典礼聖歌も220曲に及ぶ。

1992年8月「イエスのみ跡を訪ねて」という、髙田三郎作曲の典礼聖歌による聖地巡礼の旅が行われた。イスラエルにあるイエス・キリストにゆかりのある教会を尋ね、毎日、日本語による歌唱ミサを捧げる内容であった。指揮者は勿論作曲者ご自身。私は副指揮者を兼ねての参加だった。

ユダの町アイン・カレムの教会の壁には、世界各国のことばでマニフィカト(マリアが神を讃美したことば)が書いてあった。日本語で書かれたプレートを見つけた時は心が踊った。早速、私たちは髙田先生作曲のマニフィカト(私は主をあがめ)を作曲者の指揮で心を込めて歌ったのである。

また、ある日にはエルサレムの嘆きの壁の地下発掘現場を見学した。途中、小さな広場で休憩をとった私たちは「キリストは人間の姿で」という典礼聖歌を歌った。それをじっと聴いていた案内役のヘブライ大学教授ダン・バハット氏は、静かに次のように語られた。「ユダヤには<良いものは常に東から来る>という諺があるが、今歌われたような深い祈りの歌は、まず日本で作られ、後に我々の方へも伝わって来るものと思う。」そのことばを聞いた私たちは、驚きと感動、そして日本人としての誇りを感じずにはいられなかった。髙田先生もまた、静かに深く喜ばれたことであった。

エルサレムから死海に向う道程は、砂漠のような荒地をバスで下って行く。死海を見下ろせる所まで来た時、急に髙田先生が口を開かれた。「おお、死海が男湯と女湯のように分かれている!」なる程、塩の山が畦道のようになり、死海をいくつかに区切ってあるではないか。バスの中は笑いの渦となり、疲れも眠気もふっ飛び、程無く世界最古の都市エリコに到着したのだった。

このように、音楽を離れた髙田先生は、笑みを絶やさず、気の利いたジョークを発するようなサービス精神の持ち主でもあった。

s%e9%88%b4%e6%9c%a8%e8%8c%82%e6%98%8e