《コンサートホールをつくるひと》

永田 穂(ながた みのる)さん(音響設計家)

「細かいことは記憶があいまいで申し訳ないですね。お役にたつかどうか。」ホール音響設計の「神様」は物静かで、謙虚な語り口。「静けさ、よい音、よい響き」をモットーとする企業の創業者にふさわしい佇まいです。

「いいコンサートホールとは?」という質問に対する神様の答えは、あっと驚くほどシンプルでした。そしてその答えは、音楽を愛し、自分自身も音楽を演奏するわたしたちに向けた、問いかけでもあるように思います。

先日、朝日新聞に【名門オケ憧れの「トヨタ」 ホール建設に日本の音響技術】という、ドイツ・ハンブルクに完成した新しいコンサートホールについての記事をみつけた。

いま、世界の音楽通の間で、知る人ぞ知る存在である「TOYOTA」の名。自動車メーカーではない。アメリカ在住の音響設計家、豊田泰久さんが手がけたコンサートホールの響きは、世界中の音楽家の賞賛の的だ。そして世界各国の名門オーケストラが、こぞってその本拠地となるコンサートホールの音響設計を依頼し、「TOYOTAは次にどこを手がけるのか?」が話題となる。

国内における代表作は東京・赤坂のサントリーホール。ちょうど昨年がこのホールのオープン30周年だったこともあり、その主任設計者であった豊田氏の名もあちこちのメディアに上がった。

さて、この「音響設計のカリスマ・トヨタ」の肩書きは「永田音響設計」米国法人代表。そこで今回の「オンガクノシゴト図鑑」では、わが国におけるパイオニア、というより世界でも稀な、音響設計を専門とする建築設計事務所「永田音響設計株式会社」の創立者であり、現在は取締役特別顧問である永田穂さんをご自宅に訪ねた。「世界のトヨタ」を輩出したボスである、「世界のナガタ」は、どのようにしてこのユニークな仕事を始めたのだろうか?

 軍用機のエンジン設計から計測工学の道へ

 

1925年福岡生まれ。小学生のときに東京へ引越し、以後ずっと東中野で暮らす。

永田さん(以下敬称略)特に親が音楽好きだったということはなかったんです。子ども時代に覚えている音楽といったら、唱歌の試験、「天長節の歌」、そして軍歌だなあ。そんな時代でした。

 東京帝大で学んだのは航空工学。機体設計と原動機(エンジン)設計とがあったんだけど、僕が選んだのはエンジンの専修です。学校で空襲警報が鳴った、と思ったら飛行機が堕ちてきた。それが本格的な戦争体験の始まりで、それからの東京はご存知のとおり酷いことになってね。

敗戦を迎え、1946年に新制の東京大学第一工学部に再入学。進駐軍の命令で航空工学は禁止された。では何をするか?というとき、「計測工学」を選ぶ。そして1949年、NHKの技術部に就職した。松本支局勤務を経てNHK技術研究所へ配属される。

永田 やはり放送局の訳だし、僕としても「音響」というものに興味はあった訳ですが、牧田康雄さんという上司との出会いが大きかった。牧田さんのもとで、僕は初めて「音響工学」というものを本格的に勉強したんです。

  偶然の一致とは思うが、牧田康雄氏は永田氏にとって航空工学の先輩にもあたる。戦前戦中に東京帝大航空研究所に勤務、戦後大阪大学を経て1951年NHK技術研究所に赴任した。氏はまた、九州芸術工科大学の設立に関わり、国立大学として初の、音響設計学科の基礎を築いた。1968年、NHK退職と同時に九州芸工大の音響設計学科教授に就任、「牧田塾」と呼ばれた牧田氏のゼミは、牧田氏や永田氏の次世代となる数多くの音響工学エンジニアを輩出した。冒頭でご紹介した豊田泰久氏もその一人だ。

 ペーペー時代がいちばん楽しかったね

NHK技研時代の永田さんが、上司牧田さんの指導のもと、初めて手がけた大きな仕事が、内幸町の旧NHKホール(1956年築、630席)と上野の東京文化会館(1961年築、2,300席)だ。

永田 当時はちょうどテレビ放送が始まった頃だったので、技研のなかでも、テレビか?音響か?と技術者も2つに分かれていった時代でした。

僕はけっきょく音響の道を選んだけれど、NHKホールや東京文化会館、あの頃は僕も、ペーペーだったから楽しかったっていうこともありましたね。その後管理職になると、どうもつまらなくなった(笑)

  当時、日本の音響工学の最先端にあったのがNHK技研だった。旧NHKホールは、クラシック音楽界の牽引役であったNHK交響楽団の初の本拠地として、また東京文化会館は、大阪フェスティバルホールと並んで、我が国の大規模な音楽専用ホールとしての草分けであり、日本におけるクラシック音楽受容史上の大きな記念碑となるものだが、その音響設計の記録もまた、その後現在まで至る、世界的に影響を与えるような「ホール設計手法の教科書」となった。

永田 当時の日本には、ホール設計のノウハウどころか、海外のホール事情の情報すらなかった。とにかく技術的には手探りの時代でした。今にしてみると、ずいぶん役に立たない実験もたくさんやったもんです。

  1960年代以降、欧米でも戦後世代のホールが次々誕生し、そこでも音響設計という手法は導入されてはいたが、前世紀からの伝統的なコンサートホールと比較して芳しい評価が得られずにいた。そんななか、東京文化会館の音がいい、という噂は来日演奏家の間でも「Bunka Kaikan Tone」として広がっていく。手探りのなかの設計だったが結果的に素晴らしいホールとなった。永田さんは「奇跡のようなもの」と振り返る。

 永田 東京文化の大ホールは低音がよく伸びるんですよ。あれは木というよりも、コンクリート打ちっ放しの内壁がよかった。

 ちなみに小ホールは、今もとても人気の高いホールだけれど、最初は国際会議場として設計されていたんですよ。それが途中から演奏会場に変更された。実は同時通訳のブースとか、今でもその名残がちょっと残ってたりするんです。

 多くの経験を携えて独立

  いずれにしても永田さんが師の牧田さんの指導のもとで手がけたNHKホールと東京文化、そして東京文化の前年に竣工した武蔵野音大ベートーヴェンホール(1960年築、1,085席)を加えた3つの大仕事の経験は、本格的コンサートホール時代の幕開けであると同時に、のちの「永田音響設計」の源泉となった。さらに、この経験を携えて、彼はヨーロッパのホール巡礼へと出かける。

 永田 NHK時代、ホール設計の仕事とともに大きな経験になったのは、1963年から1年ほど旧西ドイツに留学に行かせてもらったことです。留学といっても大学で勉強するのではなく、ドイツを拠点にしてヨーロッパ中のコンサートホールや教会で音楽を聴いて回ったんです。

 いちばん印象に残っていたのは、ウィーンのムジークフェラインザール(楽友協会ホール)です。ウィーン・フィルの音がよくなじんでいるんですね。あのホールがなぜ市民に愛されているか、よくわかった。

1971年、株式会社永田穂建築音響設計事務所を設立、代表取締役社長となる。第1作は上野学園「石橋メモリアルホール(旧)」(1974年築、622席)。古楽演奏に強い上野学園音楽大学らしく、ソロや室内楽の響きが優美なことで定評があった。合唱愛好家にとっても、馴染みの深いホールのひとつだった。

2年間にわたったその設計にあたっては、ホール横を通る地下鉄銀座線の音や振動の影響に配慮するなど、NHKホールや東京文化会館で培われたホール設計のノウハウをフルに活かしたという。

永田 NHKホールはN響も紅白もやる。これまで日本のホールというと、「多目的ホール」がほとんどでしたが、東京文化会館の頃から少しずつだけれど「音楽専用ホール」っていう時代がやってきたように思います。

 石橋メモリアルホールも、音楽、それも室内楽専用のホールとして特徴がありましたね。今は建て替わって新しいホールになっているんですが、その設計も担当しました。とにかく「あの美しい響きをそのまま残してほしい」っていう声が大きかったので、建て替えにあたってはそれを第一に考えました。

 ホール設計は妥協の産物でもある

永田 コンサートホールの設計は、やはり建築設計自体、つまりホールの形のほうが主役であって、音響設計というのは脇役です。特に、ホールによっては建築家が設計して、我々の会社は音響設計だけ担当する、というパターンもあるわけで、どうしても妥協は宿命でもあるんですよ。

とはいえ、第1作となった石橋メモリアルホールを皮切りに、「響きのいいホール」づくりをめざし、全国の自治体や企業がこぞって永田音響設計を指名するようになった。現在までに同社が手がけた仕事は300件にのぼるが、実は音楽ホールだけが永田音響の仕事ではない。霊南坂教会をはじめ全国の教会、学校の校舎や体育館、県議会議事堂にルイ・ヴィトンの社屋。。。

永田 ウチの仕事でいちばん皆さん意外に思うのは「最高裁判所」でしょうかね(笑)判決を読み上げる場所ですから、いちばん重要なのは声の明瞭さです。

 音楽専用ホールが脚光を浴びる前は、「公会堂」っていうものが、私たちにとって音楽を楽しむ場として一般的だった訳ですが、そもそも公会堂は人が集まって演説を聴く場所だった。日比谷公会堂のスピーチの明瞭度といったら、もうすごいものですよ。

いいホールとは?

大阪のザ・シンフォニーホール(1982年築、1,704席)と並んで、クラシック音楽専用ホールの先駆けとして脚光を浴びたサントリーホール(1986年築、2,006席)は豊田泰久さんの代表作であるとともに、永田音響設計の代表作といえる。サントリーホールがオープンした1980年代中盤以降、業界筋だけでなく音楽愛好家の間でも、それまで教会の大聖堂以外ではあまり語られることのなかった「響きや余韻の美しさ」という美学が、「残響時間2.1秒」という専門用語も伴いながら急速に身近になった。

最後に、「いいホール」とはどんなホールか?永田さんにお話を伺った。

永田 一言でいうのは難しくて、視点によっていろいろなんですが、例えば中野のサンプラザは、ポップスをたくさんやる訳で、PAのスピーカーを使うのが前提だから、とうぜん吸音して残響を抑える。

 ところがそれで音がよくなるかというと不満が出た。どこが不満かといえば、吸音しすぎてお客さんの拍手が聴こえないんです。それじゃあお客さんも盛り上がらないし、ミュージシャンも盛り上がらない。「拍手がよく聴こえる」っていう発想が「いいホール」の条件のひとつだって気づいた。

  強いて言うとすれば、「いいホール」っていうのは「よく使われるホール」なんじゃないかな。それは昔ウィーンのムジークフェラインザールに行って感じたことです。

 使いこなすことで、演奏者もホールになじむ。お客さんもそれになじむ。ホールというのはいわば「道具」の訳です。使いこなしてこそ、いいホールになるんじゃないかなと思いますね。

「使いこなし」というキーワードは、実は永田音響設計の記念すべき第1作「石橋メモリアルホール」にも見ることができる。

永田 石橋メモリアルホールが誕生したとき、ホール建設のコンサルタントとして技術的なこと以外に、ひとつ提言をしたんです。それは「このホール専属の音響技術者を雇ってください。ホールは人を育てる場所なのだから。」ということです。

実際、このときに新卒で採用された音響さんがつい最近までホールの小屋守りを続けていた。石橋メモリアルホールという場所で、演奏家も、聴衆も、そして技術者も育てられてきたのだ。

ただ、このお話に続いて、永田さんが顔を少し曇らせたのは、御茶ノ水にある「カザルスホール」の行方だ。永田音響設計が手がけたこのホールは、サントリーホール誕生の翌年1987年築。511席という程よい規模、内装も音も美しく、室内楽、そして合唱音楽の分野でも愛用されたホールだったが、経済的問題から2010年に閉鎖、わずか23年という短い生涯を閉じることとなる。

永田 まず、あのオルガンがいったいどうなるのか。心配です。楽器もそうだけれど、ホールも使わなければどんどん悪くなってしまう。

 ホールは人を育てる場所

永田音響設計は、事務所の活動状況や国内外のクラシック音楽やホール事情をレポートするニュースレター「静けさ、よい音、よい響き」を発行している。創刊は1988年1月。この頃のバックナンバーをみると、サントリーホールを追うように、東京芸術劇場やオーチャードホール、新国立劇場など、都内の主要ホールが相次いで誕生していった歴史がわかる。また、88年暮れの号には、サントリーホールの入場者数が東京文化会館を超えた、というトピックスもあった。「クラシック音楽の殿堂」の座が世代交代を迎えた年ともいえる。

その一方、いま築50年をとうに越えた東京文化会館に対する評価も根強い。「やはり東京文化はいい」という声を改めてあちこちで聞く。世界をリードする永田音響の「源泉」は絶えていない。

1961年4月、東京文化会館のこけら落としに、レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルが初来日、それは、世界へ飛び出した小澤征爾の凱旋公演でもあった。そしてその小澤は1972年6月、解散前の旧日本フィル最後の定期公演でマーラーの《復活》を指揮。その伝説的名演もここが舞台だ。ここはまた、都内の中学生にとっては音楽鑑賞教室の思い出の場所でもあった。聴き手にとっても、演奏家にとっても、西洋音楽の最良の時間と空間に身を置く場であり、気づき、感動し、触発される場であり続けている。

1996年から2004年まで東京文化会館の館長を務めた作曲家・三善晃さんは、このホールを「人を育てる場」と位置づけていたという。まさに永田さんのいうことと同じだ。

永田 「ホールは人を育てる場所なのだから。」

カザルスホールの問題に代表されるように、ホールの維持運営には経済的な厳しさが増している。カザルスホールが不本意な形で閉鎖に追い込まれたとき、多くの演奏家や作曲家たちが「カザルスホールを守る会」として集まり立ち上がった。その運動のなかには、聴衆も、アマチュア音楽愛好家もきっといたはず。

ホールに育てられた私たちが、ホールに対してできることは何だろうか? 永田さんのいう「いいホールとは?」という答えは、わたしたちにヒントを与えてくれる。

(2016年8月16日、永田穂さんのご自宅にて)

お邪魔した書斎兼応接間の棚にはレコードがいっぱい。特に子ども時代から音楽に親しんだ訳ではないが、仕事をするなかで多くの素晴らしい音楽に接してきたという。

旧NHKホール建設当時のアルバムを見せていただいた。吸音材として用いられた「ヘルムホルツ式共鳴吸音体」を前にする永田さん。試行錯誤の時代だった。