文化としての合唱とコンクール

合唱指揮者 辻 秀幸

合唱コンクールの審査を様々にさせて頂いて思う事がある。昨今は特に課題曲の置かれているコンクールに於いて課題曲軽視(自選でないので志向に合わず練習に身が入らないと言うべきか?)、自由曲超難曲指向、且つ技術的に届かない未消化な演奏を良く耳にする。
聴く方にとって難曲はその完成度が高ければ感動・感心もするけれど、「そうそうここが難しいんだよねぇ!」と言う演奏は一番興醒めするし、「アマチュアがこんな曲によくぞ挑戦したなぁ!」と言う採点の考え方は根本的に間違いだと私は考えるのです。また中学生・高校生はスポーツ系クラブやブラスバンド部員を連れて来て臨んでいる学校が多いと言う。そして一般社会人のコンクールと成るとヴォイストレーナーやエキストラが入って歌っていると言う(私も音大学生時代、父の合唱団で良く歌わさせられた!)。コンサートなら解る!
どうしても演奏会に向けて選曲当時から団の環境が変化し、或いはもともとエキストラを頼むことを計算の上で選曲し、プロのソリスト、オーケストラと共に華やかな舞台を作り上げる。これは日本に第九交響曲が定着した根底にある考え方で、取り繕うと言うよりは「演奏として成立させる」為であり、コンクールに臨む姿勢としてはそれを「取り繕う」と感じるのです!
先日作曲家の松下耕氏との対談である欧州のコンクールでは「当合唱団には職業音楽家は入っておりません」と言う宣誓書を書かせられるとか。無論取り繕いに駆り出されたスポーツ系のクラブ員やブラスバンドの学生が合唱文化に目覚めると言うきっかけにはなるかも知れない。でもだから、少しコンクールを軽視する風潮を創りませんか!?
負け惜しみでは無く「コンクールなんてそうでもしないと人に褒めて貰えない合唱団や指揮者に任せとこう!」ぐらいの気持ちを以って、何のために歌い、その歌がどの様に活かされる可能性があるのかを考えたい。実は震災以降我々はその事に気付き始めていると思うのです。無論今日の我が国の合唱界の隆盛の屋台骨が、コンクールで在った事を否定するものではないのだけれど。

辻秀幸

辻 秀幸