「無題」
大妻中野中学校・高等学校合唱部
石山 明
時折、ふと考える事があります。
もしあの時違う選択をしていたら、今どんな人生を送っていただろう、と。
それとも、どんな道を通ってきても、結局「音楽」に辿り着いたのでしょうか。
一番最初で最も重要な岐路は、高校入学時でした。第一志望の学校は不合格。いわゆる「不本意入学」でした。そんな状況で迎えた高校時代の最初期は、それはもう酷い状態で、全てにふてくされて、今思い出しても赤面の至りです。今となっては「本当にこの学校で良かった」と、感謝してもしきれない、大切な母校との出会いでした。そしてすぐに運命的な出会いが待っていました。とある事情で、続けようと思っていた運動部を諦めざるを得なくなり、しばらくのあいだ、あてもなく放浪していた時期がありました。そんな時に初めて声をかけてくださったのが、コーラス部の顧問の先生でした。何の気なしに見学させていただいた練習場は、その雰囲気がとても魅力的で、瞬間で入部を決めました。生涯の恩師との出会いです。そうして音楽と出会い、その楽しさを知り、いつしか「音楽で身を立てたい」と強く願うようになりました。一人の演奏家としては夢で終わりましたが、母校に戻って後進の指導にあたり、恩師と共に活動できればと、教職の道を選びました。念願叶い、晴れて母校の教員として張り切っていたところ、奉職後まもなく、突然の異動辞令を受けます。兄弟校の音楽教員が都合により退職されたので、その代打を務める形でした。たった二ヶ月勤めただけで母校を去ることになり、この時はさすがに凹みました。しかし今となっては、この大きな岐路にも大変感謝しています。
異動した先でもコーラス部の顧問となりましたが、部活動が最優先に近かった母校とは大きく異なる環境でしたので、当初はずいぶん戸惑いました。異動した年の部員数は10名にも届きませんでした。そこから一年たち、二年たち。部員数も15名になり20名を超え、少しずつ成長していきました。ちょうどその頃、母校の応援と勉強を兼ねて、生徒と共にあるコンクールの上位大会を聴きに行きました。そこで初めて大妻中野の演奏を耳にすることになります。当時は「大妻女子大学中野女子高等学校」という名称だったと記憶しています。その演奏があまりに素晴らしく感激した私は、当時まったく面識がないにもかかわらず、気づいた時には宮澤先生を訪ねていました。演奏直後に突然、不躾な輩の訪問を受けて、驚いて目を丸くされていましたが、いやな顔を見せず優しい微笑みでお話ししてくださったのがとても印象深いです。それ以来、お顔を拝見するたびに、事あるごとにご挨拶させていただけるようになりました。あの出会いから20余年の歳月が経ち、今、大妻中野中学校・高等学校に勤務しています。
そして現在、世界は未だ先が見えない状況下にあります。当たり前だった日常が突然失われてから、一年以上になりました。空白の一年間を経験し、過去になかった絶望と挫折。またも大きな岐路に立たされていると感じています。もう少し時間が経って振り返った時、「この経験のおかげで今がある」と思えるように、今何をすべきか、自分にできることは何かを考え、毎日を精一杯生きたいと思っています。