譜メクリスト心得
歌人/合唱指揮者 栗原 寛
石垣りんさんの『詩の中の風景』(中公文庫)を読んでいたら、懐かしい詩に再会しました。茨木のり子さんの「花ゲリラ」。寺嶋陸也さんの曲を歌ったことがあるのと、もうひとつ、大熊崇子さんの曲を譜めくりしたことがあるのです。
そう、譜めくり!
僕のお務めの最重要項目と言っても過言ではないと思っているものに、「譜メクリスト」があります。
昨今はタブレットの楽譜をペダルで操れる、という時代になってきました。さらには、「まばたきで譜めくり」なんて機能さえ(打楽器奏者の篠﨑智さんが使われているのを見て吃驚仰天!右目で進み、左目で戻る)。
それでもまだまだ必要とされる時はあって、演奏会や合唱祭など、お声をかけていただいてはいそいそと出かけます(一番遠かったのは弘前)。
めくってほしいタイミングは人それぞれ。当然ですが、曲の展開によってギリギリまで見ていたい時も、逆にさっさと次の頁を見たい時もあります。そのときのピアニストさんと同じまなざしで楽譜を見ることが大事になりますし、譜メクリストならではの(?)集中力・胆力が試されます。
頷きが「今だ!」の合図になることも。ある時、頷き・めくり、頷き・めくり、の繰り返しを「餅つきみたいだった」と言われたこともありますが、まぁ、息が合っていたということで…。
ピアニストに呼吸合わせて譜をめくるゆめゆめ息を詰めるなお前
川口慈子『世界はこの体一つ分』
川口さんはピアニストにして歌人。同じ歌集に「合唱団収支報告読み上げらる支出項目のわれも輪の中」といった短歌もあって、臨場感があります。
譜メクリストが緊張してガチガチになっていたら、ピアニストにも伝播してしまうかもしれません。かといって、緩みすぎてもいけない。そーっと気配を消すように努めますが、でも、「このヒト大丈夫?ちゃんとめくってくれるのかしら?」などと不安に陥らせないように、しかるべきところで立ち上がる(そしてまた不用意に立ち上がらない)。曲調に合った立ち居振る舞いも工夫したいところ。特に、曲が静かになる場面でめくらなければいけない際には、繊細さが求められます。まして椅子がギィギィ鳴っては困るので、可能な時は、前もって確かめておくことも必要でしょう。
譜メクリストとは、ピアニストからは言わずもがな、指揮者から、合唱団から、滲み出るものや溢れ出るものを浴び、会場の空気やお客様の反応といったものまで身をもって感じることのできる役目、まさに特等席と思っています。
もちろん、よそ見をしている場合ではないのですけどね(笑)。
以降WEB版追加分
カムパネルラのうた
女声合唱のための4つのポップス『栗鼠も、きつと』(信長貴富先生作曲、音楽之友社刊)は、2012年に出した僕の2冊目の歌集『窓よりゆめを、ひかりの庭を』に収めた短歌がテキストになっています。20代終わりから30代初めころまでの短歌は、もはや自分のものではないような気さえするのですが(笑)、ともあれ、各地の演奏会や「レディースカンタートin東京」に取り上げていただくなど、この曲のおかげでたくさんの人と出会えることがとてもうれしく、ちょっぴり不思議な気持ちでいます。
2曲目のタイトル「カムパネルラがさうしたやうに」は、
東西線の夜に車輛をうつりゆくカムパネルラがさうしたやうに
という短歌から取られています。
「東西線」は大学に通っていたころ毎日のように乗っていた路線。あのころはまだ「東京メトロ」になる前、「営団地下鉄」でしたが…(最近はふたたび、臨海方面の合唱団とのご縁で乗ることも多い)。
「カムパネルラ」はもちろん、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の彼。
余談ですが、実は、小さい頃わが家にはじめてVHSのビデオデッキが来たときに、一緒に買ってもらったソフトが「銀河鉄道の夜」のアニメでした。ジョバンニは田中真弓さん、カムパネルラは坂本千夏さん。今でもあの声で台詞が再生されます。
この一首について、尊敬措く能わざる歌人のおひとり、松村由利子さんが書いてくださったブログの記事があります。一部をご紹介しましょう。
夜の電車はたいてい、大勢の人が押し合いへし合いしながら乗っているものだ。そんな込み合う電車で「車輛をうつりゆく??」と思いながら読み進めると、下の句で一気に別世界へ連れてゆかれる。作者は車両を移っているうちに、東西線ではなくて銀河鉄道に乗り込んでしまうのである。
「銀河鉄道の夜」のラストでジョバンニは、自分の前から不意に姿を消したカムパネルラが、川へ飛び込んで見つからないのだと聞かされる。カムパネルラはもう死んだのだ。でも、ジョバンニは信じられない。どこかの洲にでも着いているのではないかと思うのである。
カムパネルラは、車両をちょっと移っただけだったのではないだろうか。生きている私たちも、旅立った人たちも、実際には隣り合わせの車両に乗っているようなものだ――。
(「そらいろ短歌通信 松村由利子の自由帳」より)
これを読むと、優れた批評とは、作品を育ててくれるものなのだなぁと、しみじみ思います。
言葉が曲となり、合唱となること、そして多くの人が歌い、聴くということもまた、ひとつの「優れた批評」と言えるのではないか、なんて思ったりしています。