テーマ:《編曲の楽しみ》

「著作権便利帳」、久々の掲載です。前回のvol.9から4年以上経ってしまいました!前回は動画配信のお話でしたが、今回は「編曲」についてです。ノウハウ編とは少し離れてしまいますが。

★いつも身近に合唱を

今号で報告のあったシルバーコーラス・フェスティバルですが、その講評をしてくださった作曲家の信長貴富さんのお話のなかに、とても興味深い話があったので、そこからスタートしたいと思います。信長さんは、シルバー世代の持つパワーの素晴らしさを再認識し、とても感動されたそうですが、さらに信長さんは、今以上に合唱音楽が盛んになり、広く愛され持続するためには?という問いかけをしています。「合唱を聴く人」と「合唱を歌う人」がほぼイコールである状況を変革し、広く社会のなかで親しみを持ってもらえるためにはどうしたらいいだろう?という問いかけですが、信長さんは、「身近なところに、いつも音楽、歌、合唱があるような日常生活」になったら、というひとつのヒントをくださいました。

このヒントからひとつ浮かんだのは、文部省唱歌、童謡、「みんなのうた」の音楽、そしてフォークソング、歌謡曲、アニメソング、朝ドラ主題歌。。。こうした、世代を超えて歌い継ぎ、愛されている音楽を合唱で歌う、ということでした。合唱音楽という独立したジャンルはもちろんあり、それこそが合唱団にとっての「主戦場」ではないか、と思う反面、コンサートのなかにみんなで歌えるようなレパートリーがあることで、どれだけ客席と舞台の距離が縮まるか。そんな気もします。そこでこの「編曲」。

★編曲をするには、著作権者の許諾が必要です

おさらいになりますが、編曲するというのは、原曲を改変する行為であり、それは権利者の許諾なしには行ってはならないことです。よく例え話に出されますが、たとえ小学生の作文であっても、それを先生が勝手に書き直して公表したら、それは著作権法違反になるのです。「自分が勝手にされたらイヤだな」ということは他人にしない、という人格権のルールであり、また「翻案権」という財産権にも関連するルールです。なので、著作権が生きている作品の場合には、権利者の許諾が必要となります。でも、当たって砕けろ、というか、誠意を持って楽譜を作曲家に見てもらい、快く承諾を得た事例も決して少なくはありません。要は演奏者と作曲者のつながりを大切にすれば、それは叶うかも、ということです。「絶対にいかん!」という作曲家もいるかもしれませんが、それは少数派のような気がします。

★原作の改変は文化芸術の多様性を生む

さて、ではクラシック音楽や民謡のようにすでに著作権保護期間を過ぎた古典の場合ですが、これはまさに「自由に」改変が可能となります。著作権の保護期間を終えて作品利用の自由度が高まることが、文化芸術の発展にいかに寄与するか、という話でよく出されるエピソードが「星の王子さま現象」です。作者のサン=テグジュペリの死後、戦時加算も含め著作権の保護期間が過ぎたのち、日本で数多くの新訳が生まれたのみでなく、演劇、ミュージカルに自由に翻案されるなど、著者の描いた世界観が一気に多様性をもって膨らみました。著作権の保護期間は有限であるべき、という論拠はまさにここにあり、TPP条約に則り保護期間が50年から70年に延長された際も、議論となったのはここだったとききます。

★独断と偏見による編曲オススメ盤

クラシック音楽の編曲の古典ともいえるのは、スウィングル・シンガーズの『ジャズ・セバスチャン・バッハ』、あの「ダバダバ・スキャット」のコーラスです。そしてほぼ同時期にヒットしたジャック・ルーシェ・トリオの『プレイ・バッハ』は、モダンジャズとクラシックの距離を一気に縮めたと思います。少し後には、アメリカのワルター・カーロス(のちに性転換手術を受け、ウェンディ・カーロスとなった)が、シンセサイザーでバッハを弾いた『スウィッチト・オン・バッハ』も大ヒットしました。当時のこのレコード(電線だらけの巨大なモーグ・シンセサイザーの前で仰天しているバッハ、というジャケットもなかなかに秀逸)の評論のなかに、「バッハが生きていたらどんなに喜んだだろうか」というくだりがあったのが印象に残ります。

★原作者の名誉を守る、ということ

さて、保護期間が過ぎれば確かに自由に原作の翻案ができるようになるのですが、著作権法上、唯一そこに残るルールは、「作者の名誉を著しく損なうような改変はしない」という人格権です。しかしよほどの頑固な保守主義者でない限り、こうした古典の翻案は、喜んで受け入れられてきたのでしょう。上記の「バッハがもし生きていたら..」の論評が示すように、作者に敬意を払ったうえでの新しいアイデアは、多様性、豊かさの源泉になるはずです。

★それは「冒涜」か?

では、「作曲家への冒涜だ!」と騒ぎになった事例はあったかというと、実はあったりします。1976年、ワーグナーが創立したバイロイト祝祭劇場での『ニーベルングの指輪』初演100周年記念新演出をめぐる騒動です。

かつてはヒトラーにまで利用されたドイツ精神の聖地。その記念すべき公演にピエール・ブーレーズ(指揮)とパトリス・シェロー(演出)というフランス人コンビが起用されただけでも保守的なワグネリアンには面白くなかったのだと思いますが、シェローはここで「読み替え演出」をバイロイトに持ち込みます。読み替えとは、原作の時代背景やキャラクターを別のものに置き換えて翻案する演出手法で、当時、演劇界ではすでに定着していましたが、オペラの、それも保守派の聖地にそれが持ち込まれたことで、一気に炎上します。シェローは神々と人間の、ラインの黄金にまつわる争いを、近代のダム建設利権に読み替えたのでした。

歌手やオーケストラのボイコットも前代未聞でしたが、初演の客席は暴動一歩手前だったそうです。その様子はNHK-FMの実況録音として残されていますが、聴衆の怒号とホイッスルの音で、あの『ワルキューレの騎行』が聴こえないほどです。聴衆や一部の識者の怒りはそれほど大きかったのですが、それでもバイロイト劇場はめげずに公演を続けました。年を追うにつれ演出も演奏も完成度が高まり、1980年の最終公演では終演後1時間半、100回を超えるカーテンコールで、聴衆はこの舞台を絶賛したそうですし、今ではワーグナー作品上演の頂点のひとつを成す歴史的名演出とされています。

★改変・翻案が生み出すパワー

これだけ大騒ぎになっても、著作権法上の「作者の名誉を著しく毀損する改変」にはならず(もしなっていたら公演は差し止め、CD、ビデオディスクの発売もできなかったでしょう)むしろ大きな成果を生み出した、いい例かなと思います。それほど、「改変・翻案の自由」が生み出すパワーは大きいのです。

話はだいぶ横道に逸れたのですが、「編曲」です!ルールを守りつつ、おおいに楽しみましょう!