「指揮者考」
指揮者 雨森文也
「フルトヴェングラー」という指揮者をご存知でしょうか。「振ルト面食ラウ」と茶化されるほど不思議な指揮をする指揮者でした。斎藤指揮法の試験を受けたら「0点」かもしれません。
しかし、ある音楽誌の「音楽評論家100人が選ぶ20世紀の名指揮者」では堂々の第1位。私の指揮法の師である黒岩英臣先生も「あんな指揮ができたらいいね」と仰るほどの人物です。
フルトヴェングラーは、カラヤンの前にベルリンフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め(1922-1945、1952-1954)、ベルリンフィルの名声を確固たるものにした指揮者でもあります。
それでは、彼がいったいどんな指揮をしたのかを、数少ない映像で振り返ってみましょう。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲の冒頭では、高々と掲げた両手をおもむろに振り下ろすのですが、どこが1拍目なのかわかりません。しかし、ベルリンフィルは一糸乱れずに、実に重厚荘厳な音楽を奏で始めます。
シューベルトの「未完成交響曲」の第1楽章では、しなやかに3拍子のような振り方をしていますが、低弦の奏でるユニゾンの旋律とは明らかに合っていません。しかし、音楽を止めることはなく、次のオーボエの旋律へと音楽は豊かに流れていきます。
ブラームスの「交響曲第4番」の第4楽章のクライマックスでは、ただただプルプルと震えているだけ。しかし、ベルリンフィルのメンバーの鬼気迫る熱演は、何度観ても(聴いても)心が震えます。
こういったものを目の当たりにすると、「指揮法って何?」「指揮者って何をする人?」という疑問が湧いてきます。
フルトヴェングラーは、自らの指揮のスタイルについてこのように語っています。
『私も若い頃は点の明確なわかりやすい指揮をしていた。しかし、それだとオーケストラは点(拍)を揃えることに重きを置いてしまい、音楽的な味わい深い音が出てこなかった。また、音楽は点と点(拍と拍)の間にこそ豊かな表現が必要なのに、そこがおろそかにされてしまう。だから私は、拍ではなく、音楽を表現できる指揮を目指した…。』
う〜ん、実に深い…。
フルトヴェングラーがベルリンフィルの常任を務めていた時に、ティンパニ奏者として活躍していたティーリヘンは次のように回想しています。
『私は作曲も勉強していたので、練習指揮者によるリハの時は、いつも楽器の上にスコアを広げて読んでいた。するとある時、さっきまでと違う音がしたのでびっくりして顔を上げると、ホールの入口にフルトヴェングラーが立っていた。彼はそこにいるだけでオーケストラから素晴らしい音を引き出したのです。』
まるで魔法です。
そして、この話には続きがあります。
『フルトヴェングラーは、いつも心を開いて我々に“さぁ、みんな!自由にこのアンサンブルの輪に加わっておいで”と言っているような指揮をする。』と。
さて、先述のブラームスの映像でも際立っているのが、「演奏者が、心から音楽を、アンサンブルすることを、楽しんでいる」ということ。とは言うものの、私は指揮者が皆、フルトヴェングラーを目指すことを推奨しているわけではありません。しかし、フルトヴェングラーの演奏が、多くの人々の心を掴み、かつ、幸せにしてきたのは事実です。
先ほどのティーリヘンの話も、ティーリヘンが特別というわけではなく、多くの人々がフルトヴェングラーについて同じように回想していることからも、演奏すること(歌うことも含めて)、そして、音楽を聴くことの本質がそこにあるのではないかと思い、ここに紹介させていただいた次第です。
できますならば、一度ご自身の目と耳で、フルトヴェングラーを感じてみてください。
他にフルトヴェングラーと同じような精神性を持った指揮者として、カルロス・クライバー、そして最近ではゲルギエフが挙げられるでしょうか。
特にゲルギエフの左手はとてもフルトヴェングラー的です。
合唱に携わる皆さんも、時にはこんな側面から指揮者を見てみると、より音楽の楽しみが広がり、音楽への向き合い方が変わるきっかけになるかもしれません。