柳嶋耕太さんインタビュー

 

「途方もない出会い」へのとびら

– リモート合唱の可能性をさぐる –   (聞き手:山口 敦)

 

2020年12月現在、コロナウィルスとの間合いを図りつつ、徐々に練習や演奏会の再開が模索される日々ですが、時計を巻き戻し、春から夏にかけての非常に困難な時期に、インターネットを使ったオンライン合唱にいち早く取り組んだ音楽家のひとり、柳嶋耕太さん(指揮者・合唱歌手)の経験談については、すでに『合唱ニュースNo.221』で寄稿いただきました。その柳嶋さんから伺った、オンライン合唱の手応えについて、お話を伺いました。月刊『教育音楽』2020年10月号(音楽之友社)のご好意によりインタビュー記事の転載許可をいただき、それに若干の補足を加えたうえで、ここでお読みいただければと思います。(インタビューは2020年8月7日)

柳嶋さんが指導をしている合唱団では、実際にリモート合唱を試し、さらには「リモート合唱専門の活動をする合唱団」も新たに立ち上げています。

リモートで合唱することが、決してリアルな合唱の代用品ではなく、全く新しい価値、可能性へとつながるのでは?コンクールや演奏会など発表の機会が失われるなか、何か別の楽しみを見つけ、より高めていけるようなヒントは?

コロナウィルスと共存しながらの音楽の営みのありかたを模索し、行動する柳嶋耕太さんの「リモート合唱」への取り組みは、NHKテレビでも紹介されました。今回、その背景についてのお話を伺うなかで、危機的状況下での音楽、そして文化芸術と社会のつながりへと、テーマはどんどん変異していきました。

1 それでも繋がっていたい。では何ができる?

対面の合唱活動が基本的にかなり難しくなって、かれこれ半年(8月現在)になります。最後の舞台は2月末の『ロ短調ミサ』の演奏会でした。ちょうど学校休校の週、世の中の情勢が一気に動いた時でした。厳重に感染対策をして、客席半分というまばらなお客、全員マスク、という異様な光景に衝撃を受けました。それから半年、今ではそれが当たり前の光景になっています。自分たちの感覚が麻痺してしまったような気もします。

いわゆる三密の状態で唾を飛ばし合うことが社会的に難しくなってしまいました。正解がわからない中で、いろいろな人がいろいろなことを言っている。世の中で見解がかなり相違してしまっている状態のなかで、軋轢を生じさせずに、それでも人と繋がっていられたら、と思って、では何ができるかと模索してきました。

僕は一般のアマチュア合唱団とプロの合唱団を指導していますが、そういうところでは長期的なビジョンを立てて、「今はこうだけどいずれはこうして」と、なんとか計画を立ててしのげる。積み上げて2年後に演奏会を開くつもりでいましょう、ということができる。でも中高の部活や大学のサークルではそうはいかないですよね。学校の現状について僕が非常に心を痛めているのは、そこです。毎年生徒が入れ替わりますから、「今年度にできるかできないか?」というのは大きな問題です。その意味で大学生が一番辛いと思います。大学だけは現時点でもほとんど学校へ来られない状況が続いています。そこで、表現の場の形は違っても、リモートでやることが何かの助けになれないかなと思いますし、手伝えることがあるかな、と。

緊急事態宣言解除後、柳嶋さんとピアニストの薄木葵さんがスタジオで動画を収録。ちなみに、指揮の動画とピアノの音声を別々に撮って合成した場合よりも、参加者にとっては、はるかに歌って合わせやすい、という感想が多かったそうで、やはり同じ空間で音楽をできることの貴重さは再認識された。

リモート合唱ならではの特性を活かす

技術的な問題としてまず、Zoomなどオンライン会議システムをつかった方法では音声の遅延がすごくあるので、今までのようにリアルタイムで同時に歌うという合唱体験はほぼ不可能であることがわかりました。そこで、みんな音声をミュートして音を出さないようにして、こちらから指揮の動画を送る、あるいは誰か一人が歌って、それに合わせてみんな歌うという、「1人対多数」の形のアンサンブルにならざるを得ません。

指揮をしても向こうから音は返ってこないわけですが、それでもその時、なんというか「音楽をしている」という感覚はあって、ああ、これは面白いなと。サウンドそのものは奪われているけれども、僕自身の中に何かが確かに残っている。歌っていただいた方の感想も同じでした。そうこうするうちに、4月には、多重録音によるリモート合唱専門の合唱団を立ち上げて、この際それを追求してみないか、という話になったんです。

形が大きく変わっても、中に持っているものは変わらないわけで、そこをしっかり見つめ直すことができれば、芸術活動として何らかのことは続けられるだろうし、「リアル」の合唱が戻ってきた時にも、両方をうまく組み合わせていけるのではないでしょうか。

合唱というのは、人が一堂に会して音楽のコミュニケーションをする。その時に生まれる独特な高揚感、充実感、そういったもので、それぞれの人の生活が心理的に彩られる。そこに僕も指揮者としてのやりがい、生きがいを見つけてきたわけです。それは大切に思う一方、それでは「リモート」の意味はあるのか?と当然なります。結局、合唱団でこれまでやってきたことをまるっとそのまま再現するのでは、リモートのデメリットがもろに出てしまう。それに気付いて、じゃあ、このやり方でしかできないことをしてみようと思いました。

各個の音声ファイルを送ってもらって、それを僕がミキシングして一つの合唱にするわけですが、生の声がファイルとして残っていて、それを一人一人きちんと聴けるというのは、実は普通の合唱練習ではあり得ないことです。一人一人に対して「あなたの歌や声はここが良くて、ここは気をつけないと」というアドバイスができる。それが僕の合唱団の人たちにとってはすごくヒットして、そこから突然驚くほど参加意識が上がって一気に良くなっていった。オンライン、かつオンデマンドでコミュニケーションし、個人レッスンができるわけです。普通の合唱で、一人だけ歌わせるというのはすごくスパルタですし、下手をすれば「晒し」になってしまう。プロの合唱団で指揮者がそんなことをしたら二度と呼んでもらえなくなってしまいます。これまでの合唱練習というのは、全員の混ざった音を対象にして評価や指示をしてきた訳ですが、混ざる前の一人一人の歌について直していくということは、全体の外側に大きな絆創膏を貼って修理したのとは全く違うプロセスで音楽を直していくということで、それはかなり音楽の可能性を広げることになるのではないか。演奏への、あるいは練習法への新しい切り口が存在するなと思うんです。

一方、現場でもリアルの合唱をディスタンスの条件付きで再開している合唱団があるわけで、実際、そういうところも指導しています。感染リスクなどの専門的知識はありませんが、リアルで集まる頻度というのはやはりリスクに比例すると思う。なので、集まる回数を減らしてリスクを低くした上で、集まらない日にはリモートで培った技術で、それぞれが切磋琢磨する。その上で集まると、ただ漫然と毎回リアルに集まって歌うよりも、何か新しい可能性があるのではないかと。「ハイブリッド」の可能性はあるなと思います。

動画編集ソフトで、ピアノと個々の歌の音声ファイルを重ねる。

2 時代・社会を表現する

コロナ禍で、芸術に関わる人々が苦しんでいます。そしてコロナだけでなく、貧困や戦争など、世界には音楽をやりたくてもできない人がいる。リアルな合唱が戻ったときでも、それを忘れないで、という議論がありました。

それは一番大切な視点と思います。そもそも音楽をなぜやるのか?というとき、常に僕が意識しているのは、現在の社会の状況を、音楽を通じて描写したい、ということです。良い悪い問わず、とにかく複雑な時代に我々は生きているので、その複雑さを音楽で表現したい。そして、弱い立場にある人たちのことに心をとめつつ、です。

4月、困難な状況を迎えていた頃、世界中でたくさんの人が亡くなっていて、家族の死に目にも会えず、いまだにそれを受け止められていない人もいるはずなんですね。震災の時もそうでした。それそのものに直接寄り添うような、おこがましいことは僕にはできないですが、それを忘れず、意識は持っておかなければ、と。だからコロナ下のリモート合唱で最初に取り組んだのは、バッハとニーステッドの『甘き死よ来たれ』というモテットでした。ベートーヴェンの『第九』だって、歓喜に至るプロセスがあるはずだし、そこに至る前に死んだ人もいる。そういったことまで受け止められるような度量の広い曲だからこそ、愛されているんだと思うんです。表現者として、そういう世界を取りこぼすことは、やはりしたくないな、と思います。

取りこぼされた人々がいる

僕は幸い、既存の合唱団の人も含めオンラインで合唱をやることに同意してくれてお金を下さる方がいるおかげでなんとか生活していけていますが、コロナのために経済的に苦しみ、不本意ながら音楽から遠ざからざるを得ない職業音楽家が少なからずいます。

リモート合唱は、そういう人たちが今後も音楽を続けていけるための一つのステップになりうる、と思っているんです。イニツィウム・オーディトリウムという自分のwebサイトの中で、音楽博物館のようなものを作って、作品を観て聴いてもらって、販売することで音楽家がそれなりの収入を得られるような場を作りつつあります。寄付を募る、補助金をもらう、というのはいわば延命治療のようなものですが、そうではなく、聴き手もそこに価値を認めて支援するということで持続できたら、と思うんです。

アマチュアの合唱愛好家としてできることですが、音楽家が音楽家として輝けるような場づくりを一緒に考えられたら素晴らしいですね。例えばですがヴォイストレーナーが困っていたら、レッスンを動画にしてみる、そんなことをみんなで考えて実行できたら。

それと、とても興味深いのは、オンラインの形になって、やっと合唱ができるようになった、という人もいる、ということに気づいたんです。仕事が忙しすぎたり、子育て世代の人たちなどです。就職で合唱から離れてしまう人も多い。リモートだとそれができる。動画サイトながら発表の機会も持てる。それって、今まで合唱のコミュニティに加われず、でも合唱が好きだ、という人をすくいあげることになったのではないでしょうか。

「卒業後、一生いつまでも音楽を続けなさい」と観念的には言えるけれど、実際にはそれが無理な人がいるだろうな、とこれまでも何となく思っていたけれど、実際に今回の活動の中で一緒に行動して、思いは深まりました。こういう人たちを取りこぼさないような場が必要なんだと。

他者のために歌うこと

西武文理高校だったかと思うんですが、リモート合唱の動画がありました。生徒が発案して、先生や卒業生も一緒に、と輪が広がっていったのが素晴らしいと思いました。テクノロジーは高校生の方が強いですし、ノウハウをシェアしたり、逆に大人のエンジニアが子どもを助けて、安心して活動できる環境を作る、ということもある。

西武文理の部長さんは、自分たちの音楽を聴いて、人々に何か持ってもらえるような音楽を、とおっしゃっていましたが、それは素晴らしい視点で、僕の高校時代にはそんな思いは持てなかった。自分が歌って気持ちいい、という発想を超えた素晴らしいことだと思いました。状況の変化のおかげで、こういう発想もまた生まれるのだなと。なぜ音楽をやるのかと問われて、こういうところへ到達できるのであれば、音楽というものの大きな意味があって、それはボーッと日常を過ごしていたら気づけなかったかもしれない、と思うんです。

3 「聴く」と「歌う」はつながっている

貴重な「循環」の体験

コンクールで勝つか負けるかで1年の約半分が過ぎていくという部活動もありますが、そうではない生き方もあると思うんです。コンクールでは出会えないような交流もリモートで可能となる。それと、「集まって歌えない」ときに、「聴く」ということ、あえて歌わないという選択肢もありますね。この時期、「聴く」ことで自分の中の音楽を育ててはどうか?という議論もありました。

ドイツ留学中は、とにかく音楽を聴きました。大学があるザールラント州では、学生証があると交通が無料、州立劇場と放送オケがあって、無料とか非常に安く聴けるし、オペラの稽古にもよく出入りしていました。

巨匠のすごい演奏を聴いて、それをそのまま真似すればうまい演奏ができる訳では決してない、と気づくことも含めて、一つのポジティブな循環が自分のなかに生じる。そして自分自身がのびのびと演奏できるようになると、他の演奏の良さに気付けるようになる。ですから、今、歌えない時に「聴く」というのはとてもいいことだと思います。よい音楽を聴く機会自体を増やしていくためにも、やはり何か手立ては必要とは思います。

聴いた」ということが自分の脳のどこかに保存されて、「歌った」時にも脳の別の場所に保存される。そして時間が経ってから、ある日、突然二つのメモリーがつながったりします。そういう自分のなかの循環があると思うんです。

コンクールを聴き、自分が拓けた

うちの高校は、毎年卒業生と合同の演奏会を開く伝統があったので、普通の高校ではなかなか体験できないようなことができました。高1の初めての演奏会はオペラシティで三善晃の『路標のうた』を(清水)敬一さんの指揮で。そして関屋晋先生の指揮でロバート・ショウ編曲のバーバーショップを。そんな体験から始まって、部活に燃えて練習もたくさんしましたし、敬一さんという素晴らしい先生に恵まれて、運も良かったと思いますが、とにかくコンクールの全国大会に行けました。それまでは、自分たちがいかにうまくなるか、そして、うまく歌えば金賞という結果につながる。ほぼそこにしか興味がなかったと言っても過言ではないと思います。

ところがいざ全国大会に出てみると、どの学校も、音楽的にも技術的にも素晴らしい。そういうすごい演奏にリスペクトを持ちましたし、しかも課題曲でもいろいろな曲と演奏があって、ああ、こんなに多様性可能性もあるんだと気付かされた。自分たちを「相対化」することが初めてできたんです。課題曲集を全部眺めて、CDを全部買ってみんなで回し聴きしたんです。めちゃくちゃ聴きまくった。会場で圧倒された体験が、改めてCDで聴くことで、より強化される。

僕は高校で燃え尽きて、合唱から足を洗って大学ではア・カペラのサークルで歌ってみたいと思っていたのに、全国大会で色々な合唱を聴いてしまった結果、それまで到達点だと思っていた全国大会が、実はまだまだ合唱の入り口に過ぎなかったんだと思い直したんです。やっぱり合唱って面白いな、と思った。

僕たちの高校は、毎年コンクールで全国に行くような合唱では全くなかったので、この時、いい意味で「全く未知のところ」へ行くという感覚でした。「分からなさを受容」して、すごいなと驚く。それが毎年慣れっこになって当たり前になってしまう、というのが、あえていうなら「コンクールの弊害」ということなのかな。ここがこんなにすごいなら世界はもっとすごいんじゃないか!と思うわけです。もっとわからなくて面白いものがあるはずだ、という蓋然性が自分の中で理解できる。コンクールでトップを目指すというより、高い山に登ってみたら、ぱあっと視界が開けた、という感覚だったんだと思います。

 

4 海外のコロナ事情、そして文化芸術と社会の関係

日本では文化活動再開のためのガイドラインができるまで慎重な議論が重ねられたという気がしますが、向こうは動きが早かったという印象があり、実証実験も盛んに行われました。ドイツの場合、多くの合唱組織がそれぞれにガイドラインを作っています。その情報交流も早いスピードで共有していました。制約がある中で、これぐらいの活動をするのであれば我々もリスクを背負いますよ、という「責任をとりに行く」姿勢がはっきりしていましたね。

客観的で科学的な指標を大事にするということが、ドイツは特に顕著です。また、各専門家がコロナについて議論していて、日本では医学と経済学の専門家という二本柱に思われますが、ドイツではそこに倫理学の専門家が加わるんです。人間としてそれをしていいかどうか、非常に根源的な問いがそこにある。これは議論に重みがあるな、という印象はありました。

芸術は不要不急の趣味か?

文化芸術を社会の中にどう位置付けるか?と考えたとき、例えばドイツのメルケル首相やグリュッタース文化大臣の発言、それに文化支援政策に対して、我々は羨ましく思いました。

音楽や合唱が大切な文化の一部であることは、この記事の読者も含め、私たちにとっては自明なことと思うんですが、日本の社会全体としては「趣味の一つに過ぎない」と捉えられがちですよね。ドイツでは、特に教会の世界では、合唱というのが人間の営みの本質の一つなので、そういう意味で、社会における音楽の重要度が段違いなのだと思います。だからこそ、コロナ下で音楽をやるにしても自粛するにしても、非常に真剣な議論が出てくるんだと思うんです。そして、源流を辿れば確かに生活の中の音楽というキリスト教文化との関係はあるかもしれないですが、ただし、実際の生活の中にそれが今残っているかどうかよりも、歴史的にそういうプロセスを経て現代社会がある訳です。

日本における西洋音楽の受容史を考えると、軍隊の統率や国語、道徳の教育、といった面から始まって、やがて文化芸術を個人として味わうようにと変化していった。日本のプロセスもそれはそれで悪い方向ではないとは思いますが、それでもいざ生活が苦しくなった時に、所詮、それぞれで楽しむ趣味でしょ、となってしまう。

日本人は、アイデンティティに悩み続ける運命を近代以降背負ってしまった。近代化の過程で、西洋に追いつくための手段として西洋音楽を輸入してきた。我々にとって「近代化」とは「欧州化」であって、やがて社会が豊かになってそれがよくわからなくなった時、自分たち独自のことをしたいとなった時、どこに何があるのかわからなくなっているのではないでしょうか。本来的に自然にあって大事にすべきことで地面に生えているようなものと、国家のシステムのようなものが、良い悪いは置いておくとして、全然結びついていないのが、近代の日本社会ではないでしょうか。

ドイツは無理やり入れたものではなく自然に発生したものなので、そうはならないですよね、きっと。正当性がごく自然に出てくる。

もちろん政治の質の違いも日独で確かにあると思います。今、北ドイツの放送合唱団を民営化して半分リストラしようという動きがあって、それに音楽関係、メディア関係の人たちは大反対をしている。ドイツも経済的に厳しい状況にあることは確かですが、いや、それでも文化は大切だ、という主張を、与党の政治家でも語る訳です。国民のリアクションをみても、ドイツ人は「それはそうだ」と。「だってそれが俺たちの文化じゃないか」と正当性を認める。確かにワーグナーはナチに利用されたけれど、時代を経て、バレンボイムがイスラエルでワーグナーを演奏して、それがまた一つの文化と認識される。日本の場合だと、そういう話を仮に誰か政治家がしたとして、生活が大変なのに音楽どころじゃないでしょ、というのが、けっこうな正論として支持されているように思います。

ドイツ・オッガースハイムの教会で聖歌隊を指揮。(2017年8月)(C) Eiji Yamamoto Photography

 

「祈り」の普遍性

 キリスト教の文化が社会の価値観のベースとなっている。でも、それをもって「メルケルはああ言ったけれど、日本は文化が違うでしょ」とは言えないですよね。キリスト教文化をより普遍的にした価値観が、現在の西欧諸国の社会システムにつながっている。

例えば、ブラームスの『ドイツ・レクイエム』は、カトリックの典礼としての死者のためのミサの式ではもはやなくて、詩篇を自由につなぎ合わせて、一つのドラマとして再構成している。日常の教会でのお祈りという行動から外れて、「死」というものについて、とり残された人たちをどう捉えるか、ということについて普遍性を持って語る。だから多くの人に愛されているのだと思うんです。

教会音楽というのは、本来、教会のお祈りの儀式の枠組みのなかで歌われてきました。僕の体験の話ですが、カトリックの聖歌隊で指揮をするようになって、初めてミサの形式に沿って説教や朗読を挟んで演奏した。その音楽的時間の流れがものすごくしっくりくるんです。その「しっくり感」というのは、技術的なことではないんですよね。この事実に敬意を払うのは、すごく大事だと気づきました。曲が存在する文脈とか背景を足場にもつということ。単に「本場だから」というのとは違う、その音楽がある、もっと根源的で必然的に「そこにある」という感覚です。

もちろん、クリスチャンでもなく日本人である僕などが、そこで合唱を指導することへの迷いもありましたが、あるアルトのおばあちゃんの言葉がひとつの答えになりました。「平和の中に暮らし、周りの人を大切にして生きていきたい、という考え方があなたの中にあって、それをもって音楽に関わろうとするのであれば、それで十分ではないかしら」と。それこそ民族や宗教を超えて、普遍的なところで共通な心を持っているのであれば、ということですね。

世界の現実を見れば、グローバルな平和は訪れていないわけですが、礼拝の最後に、「○○のために祈りましょう」という言葉が必ず出てくる。そこには、信者ではない人たちのために、今日シリアの空爆で苦しむ人たちのために、といった言葉もありました。

宗教的信仰心がないとしても、自分たちのこれまで生きてきた積み重ねを生かして、少しでもそこへ近づいていこうとする。それは、少なくとも、「うまく演奏したい」という視点からは絶対に出てこない感覚だと思います。音楽は抽象性の高いものですから、それでテキストの文脈を語ればより普遍的なものになっていく。悲しい話だから悲しく歌うというというようなことではなく、音楽そのものに何かがあって、その音楽を演奏したり、聴くことで受容した自分たち自身の内部にも何かがあって、過去の積み重ねもそこに作用していく、ということなのでしょうか。

予想外に他者とつながるのが「文化的生き方」

作曲家・ピアニストの高橋悠治さんが先日言っていたんです。「音楽はウィルスだ」と。何かを媒介して感染していく。歌詞、その人の経験、いろいろな要素があって、その間に音楽があって感染していく。そして変異もしていく。毒性が強まることもあって、まさにナチスに利用されたというのはそういうことですね。

さきほどのコンクールの話に戻ると、僕は幸運なことにコンクールで他校の演奏に出会った体験で、音楽や人の多様性を感じてその先の広がりへとつながった。「文化的である」というのは、予想もしなかった経験を通じて自分の枠を超えて、他のどこかへとつながってしまうことではないでしょうか。そのままでは触れられなかったことが、何かを通すことで触れられる。僕の場合は音楽を仲介として、例えばキリスト教や詩の世界にたどり着く、そして社会を描写してみたい、という衝動につながった。

この、「自分の予測できないことが起きる」というのが実は、社会の持続的な発展にとって大切なんじゃないかなと思うんです。文化というのはそういった小爆発の集まりのようなもので。

ネット社会で、言葉を発信することがすごくやりやすい時代です。僕も実際そうやって発信していますが、でもその限りにおいては、自分の想像力の限界を超えるようなことは起こり得ないと思うんです。ところが「対話」をすると、二人とも思ってもいなかったようなことに気づくってありますよね。音楽活動もきっとそういう対話形態の一つなのであって、完全にコントロールはできない、まさにウィルスのようなものではないでしょうか。その可能性を垣間見ることができる体験が、僕自身にとっての人生の糧なのであって、それは決して虚しいものではない、と僕は思っています。

「文化芸術は社会にとって必要か?」という問いに正解はみつかりませんが、ひとりひとりがこのことを考え、対話する行為自体が、必要不可欠な人の営みと言えるのではないでしょうか。

 

【神奈川コンクールについて】

湘南高校の岩本達明先生からお声がけをいただいて、神奈川のリモートコーラスコンクールの審査員を務めさせて頂きます。参加要項がとても緩いんです。なんでもアリで。岩本先生曰く「カオスでいい。全てを受け入れるんだ」と。それを審査しなければならないので難しいですが、面白いのは、玉川学園の映像の先生も審査員に参加されているんですね。「コンクール」といっても、勝ち負けではないアプローチができる。僕は参加者に対して、審査、というより自分の気持ちを伝えたいなと思っています。減点法ではできないし、そもそも正解もなくて、その正解へ向けた講習会もない。ある意味「脱コンクール」です。いったい何が起きるか、わからなすぎて楽しみです!

 

【リモートコーラスのハウツー】

◆リモート合唱はすでに多くの方々が取り組まれていると思いますが、リモートで合唱を始めてみよう、という時、まず録音・録画をするというところが一番敷居が高いので、そこを乗り越えるて一歩踏み出さないといけないですね。でも、人によって知りたいことや「つまずき」はさまざまと思います。ここでは個別に技術的なアドバイスのまとめはできませんが、何人かの方がリモートコーラスのノウハウについて書かれていますので、もしご参考になれば。

★U R L集

リモート合唱動画の作り方(あされん風) – さき(あされん)

「合唱」ができるまで 〜 テレコーラス制作編 - 田中達也

オンライン大人数合唱ミックスのコツ – しもきん

テレコーラス(オンライン合唱)に取り組むマインドセットのすすめ – しもきん

リモート合唱を成功させるためのノウハウ – 石若雅弥

 

◆私自身がコロナ禍の機会に立ち上げた、リモート専門の合唱団があって、その団員用のSNSや限定動画があるのですが、「どんなことをやっているのか?」と気になる方々のために、「オブザーバー」という資格でこのSNSに参加できるようにしています。ここのやり取りの中に、団員各自へのアドバイスも書き込まれているので、もしかしたらここも参考になるかもしれません。また、もし疑問があれば直接私宛にメールをくださっても結構です。

オンライン合唱団 「合唱団あっぱれ」オブザーバー募集ページ

 

★柳嶋耕太さんのメールアドレス・webサイト

kota@yanagishima.de

https://yanagishima.de

 

【プロフィール】

柳嶋耕太 (やなぎしま こうた)

早稲田大学高等学院グリークラブを経て、早稲田大学在学時より指揮活動を始める。2011年に渡独。マンハイム音楽・表現芸術大学指揮科を経て、ザール音楽大学指揮科卒業。学内ではアシスタントとしてザール音楽大学合唱団の指導・指揮に携わる。学外では、ルートヴィヒスハーフェン・オッガースハイム聖セシリア教会合唱団専任指揮者、ザール福音派合唱協会客演指揮者を務めるほか、各合唱団をスポット指導するなど、地域の合唱指揮者としても活躍する。

2015年、ドイツ若手指揮者の登竜門であるドイツ音楽評議会・指揮者フォーラム(DIRIGENTENFORUM)研究員に選出、同時にCarus出版より”Bach vocal”賞を授与される。以来、ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)、北ドイツ放送合唱団(NDR Chor)、ザールブリュッケン室内合唱団をはじめとするドイツ国内各地の著名プロ/セミプロ合唱団を指揮。

2013年度ドイツ連邦教育研究省奨学生。

合唱指揮をゲオルク・グリュン、指揮を上岡敏之、声楽をアンネ-カトリーン・フェティクの各氏に師事。モールテン・シュルト-イェンセン(デンマーク)、サイモン・ハルゼー(イングランド)、ヘイス・レーナース(オランダ)、イェルク-ペーター・ヴァイグレ(ドイツ・ベルリン)、ステファン・パルクマン(スウェーデン)、ジュゼップ・ビラ・カザーニャス(カタルーニャ)などの各氏をはじめとする多数の講師のもと指揮マスタークラスを修了。

2017年秋に帰国。以来、vocalconsort initium、室内合唱団vox alius、Projektchor Philharmonia、横浜合唱協会、こだいら合唱団、東京ユヴェントス・フィルハーモニー合唱団、Chor OBANDESなど多数の合唱団で音楽監督および常任指揮を務めるほか、(株)コーラスカンパニー主催の合唱指揮講座講師を務めるなど後進の育成にも力を入れる。さらに、ザールブリュッケン室内合唱団、Ensemble Vocapella Limburg、emulsion、Salicus Kammerchorなどに所属するアンサンブル歌手としても活動を拡げる。