ピアノ調律師の仕事

「試行錯誤する音づくりの時間」を、だれかと共有したい

朝一番にホールへ入ってみると、ポーン、ポーンとピアノの音が聴こえてくる。そんな音の風景から「演奏会の1日」が始まる。合唱団の人たちよりも一足先に小屋入りし、ピアノにかがみこみ、なにやら不思議な道具を使ってピアノを弄っている人。今回はその「ピアノ調律師の仕事」がお題です。

「世界の二大ピアノメーカー」と呼んで差し支えのない、スタインウェイ(Steinway & Sons。1853年創立。本社はニューヨークとハンブルク)と、ベーゼンドルファー(Bösendorfer Klavierfabrik。1828年創立。本社はウィーン)。今回、ご縁あって両社で調律師の仕事をされているお二方にご登場願いましたが、あえて「二大ピアノの対決」といった趣向ではなく、人としてとびきり魅力的で素晴らしいお二人の音楽人生のお話を通じて、「調律師の生きる道」を垣間見てみたいと思います。

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◆黒滝泰道さん(株式会社松尾楽器商会 ピアノ技術者)◆

スタインウェイといえば「松尾楽器」。そう記憶する人も少なくないだろう。スタインウェイ・ピアノの輸入販売とメンテナンスを司る特約店の草分けとして長い歴史を持つ。黒滝さんはそこで委託技術者としてピアノ調律を務めるがときどき、調律の仕事終了後に「一個人」に戻ってホール客席の片隅でリハーサルに耳を傾けている姿を拝見することがある。「一合唱ファンとして聴かせていただきたくて。」と彼はいう。

慶應義塾大学工学部機械工学科出身。大学時代は慶應バロックアンサンブルでチェロを弾く。当時このアンサンブルは、チェンバロ製作の第一人者といわれた堀栄蔵さんの楽器を使わせてもらっており、黒滝さんはアルバイトで楽器運搬の仕事を。そして当然のことながら調律にも興味を持ち、サークルでその役を買って出た。

そして大学卒業後、2年ほど製薬会社で勤務したのち退職し、名古屋の中部楽器技術専門学校でピアノ調律を学ぶ。転身のきっかけは、とある夏の音楽祭。アマチュアのチェロ奏者として室内楽のセミナーに参加した時、たまたま松尾楽器の調律師さんと相部屋となった。一晩語り合ううちに、「調律師の仕事」を選ぶこととなる。

調律師の大敵は「温度変化」

職業柄、いろいろなホールやスタジオでいろいろなピアノに接する。楽器の状況もそれぞれ違うはずだが、コンディションとして何が気になるのだろうか。黒滝さんは「温度」だという。チェンバロほどデリケートではないとはいえ、基本的には全く同じで、温度変化がいちばんの大敵。特に冬の朝、冷え切ったホールに空調が入り、照明が当たると温度はどんどん上がり、十数度の温度変化がある。これは調律師なら誰もが嫌う環境だそうだ。

「リハーサル進行の許す範囲で、できるだけ早くから舞台の温度を温めて、そこにずっと楽器を置き、楽器の温度も安定した状態で調律を始めるのが理想です。でもなかなかスケジュールや予算面で、合唱団としては難しいですよね…」

調律作業の中身

さて、だいたい90分から120分、というのがコンサート前の調律作業だ。状況や人によって違いはあるとは思うが、この間の作業について基本的にやるべきことを黒滝さんから伺った

まずピアノをざっと弾いてみて、そのピアノのコンディションを知る。何か違和感を感じれば、まずそれをどう直していくか、その日の演目や弾き手のことも考えながら作業方針を立てる。それが最初の仕事。この時に機構面のトラブル箇所がないかのチェックもする。万が一不具合があれば最優先でそれを直す。

次に、アクション(鍵盤とハンマーなどからなる、音を発する装置一式のユニット部分)と本体との位置関係の微調整を。いわば調律の基礎となる枠組みを正す作業だそう。そして、ハンマーと弦との位置関係などを調整、また音のばらつきを微調整して整えていく作業もある。こうしたさまざまな要素によって、弾き心地も音色も大きく変わってくる。「カリッとした音か?柔らかい音か?」といった音色のニュアンスも、実はこのあたりに秘密があるようだ。

「歌うピアノ」って?

木製の長い柄のついたレンチのような工具でネジを回して弦の張力を微調整し、音程(ピッチ)を合わせる作業は、私たちがよく目にし、耳にする工程だろう。実はピアノの1つの音は、3本の弦の振動からできている。この、3本の弦を調弦し1つの音の高さを整える作業を「ユニゾンを合わせる」と呼ぶ。3本の弦で微妙に異なる振動を撚り合わせて同じ形の音に揃えていく。その、ほんのわずかな加減が、ピアノの音の性格づけに重要な意味を持つ。それは単にピッチメーターの数字を見て、3つを同じに揃えればいい、ということでは全くなく、音の形を整えた結果、それらが微妙にずれている場合もある。非常に感覚的なことであって、まさにそこが調律師の腕の見せどころだそうだ。そうやって1つ1つの音を整えたうえ、88鍵全体として調和のとれた「音の形」づくりができるかどうかで、「よく歌うピアノ」「歌ってくれないピアノ」が分かれるという。

「今お話したような調律、そして舞台での置き方も含め、実にいろいろな要素が組み合わさってピアノの音色はできています。この、数字では表せない試行錯誤によって、よりよい音にしていく作業というのは、実はピアニストも、そして合唱も同じような気がするんですよ。」

アマチュア音楽一家の暮らし

「一合唱ファン」という黒滝さんだが、中学の校内コンクールで指揮をしたのが合唱との出会いだそう。その後はチェロ一筋だったが、ひとつ、寄り道があった。「調律師学校って、全国から学生が来るので、寮生が多いんです。まあ、暇はあるし、多分寂しさもみんな抱えていた。私はサラリーマン生活のぶん年長者だったこともあって、じゃあ合唱団作っちゃおうか、と呼びかけた。『旅』とか歌いました。1年間だけでしたが楽しい思い出です。」

ピアノを弾く奥様は慶應時代の通奏低音パートの同僚、お子さん二人は高校時代には合唱部、というアマチュア音楽一家。黒滝さんは地元・川崎の麻生フィルハーモニー管弦楽団でチェロを弾きつつインスペクター(事務責任者)も務めた。そこで、ちょっと「合唱」に絡めてオーケストラのことをきいてみた。マーラーの『復活』そしてベートーヴェンの『第九』、どちらもチェロが非常に重要な役を果たす作品だ。

彼曰く「波乱万丈のアマオケ人生」史上の一大プロジェクトとなったのは、ミューザ川崎で開催した同団の創立30周年記念公演だ。広上淳一さんの指揮で『復活』。インスペクターは、練習場確保からソリストのブッキング、もろもろの手配全てを取り仕切る。大編成の合唱をさてどうやって集めよう、というとき麻生区の合唱連盟が快くコラボを引き受けてくれて、素晴らしい本番が実現した。「あの曲、最後に合唱がぜんぶ持っていってしまうんですけどね(笑)」

年末は調律の本業が多忙につき、なかなか『第九』の演奏機会がなかったという黒滝さんだが、一昨年、川崎市民第九でチェロの首席奏者を務めた。しかも指揮者は秋山和慶さんだ。「アマチュアオケの醍醐味、というか役得ですよね!自分が弾く真正面1m前にマエストロがいらっしゃるんです!息遣い、眼力、とにかくオーラを全身で浴びました。」

普段ホールで調律師としてお付き合いする合唱団のひとたちとも、この時は違う立場で再会。声をかけてもらえたのが嬉しかったそう。この曲、弦楽器の難易度は相当高いそうだが、合唱パートを一生懸命覚えたという。「この曲は、合唱の音と言葉を理解すると、オーケストラもだいぶ違ってくると思うんです。技術的な壁はなかなかクリアできませんでしたが、息を合わせ、精神的に合唱団と同じところまでいきたかった。」

音楽が生まれた街の風土を訪ねたい

「とにかく、直接集まってアンサンブルできる、っていうことは、コロナ禍になって改めていかに貴重なことか、と思い直した。」という黒滝さんだが、ちょうどコロナ流行の少し前に、長く在籍した麻生フィルを一旦お休みし、古楽器アンサンブルの活動に重心を移していた。「モーツァルトを一度きちんとやってみたくなったんです。」

息子さんの一人は、大学時代にオーケストラの演奏旅行でウィーンへ行き、あこがれの楽友協会ホールで演奏したという。「就職したら仕事が一杯一杯みたいで、今は音楽をやっていないんです。もったいない話ですよね。できれば何らかの形で続けてほしい。」

ご自身は、調律師学校時代の研修でヨーロッパへ行き、スタインウェイやベーゼンドルファーの本社を訪れている。今にしてみると、ずいぶん勿体なかったな、と思うそうだ。「恥ずかしい話ですが、若いときは何も見てなかったと思うんです。せっかくバロック音楽をやっていたのに、その背景にある歴史や文化、風土についての蓄積が自分の中に何もないまま行っていたんだな、と。」なので今、やりたいことは海外旅行。「還暦を過ぎたこの歳になってこその、昔とは違う自分の眼をもって、ヨーロッパの街をまた歩いてみたいです。」

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◆佐々木一実さん(株式会社B-tech Japan コンサートチューナー)◆

B-tech Japanは、元、日本ベーゼンドルファーの技術者たちによって立ち上げられた若い会社だが、佐々木さんがまだ日本ベーゼンドルファーの社員だった2005年、とあるコンサートのピアノ調律でお世話になったことがある。その時、コンサートの終演後に一献傾け、「なぜ調律師になったか?」というお話を伺った。とても印象的だったその時のお話が、この「オンガクノシゴト図鑑」のシリーズ企画を立てた時の、いわば原動力となった。

調律師の仕事の喜びってなんでしょう?

音楽が生まれる瞬間に立ち会える、っていうことでしょうかね。そしてその生まれた音楽に、自分も責任を担っている、ということです。楽器のコンディションは現場によってさまざまです。例えばジャズのミュージシャンだと、ピアノのコンディションが悪くても別の意味での素晴らしい演奏が生まれたりする。極端な話、特定の音に問題があるピアノなら、その音を弾かないようなコードを選んだり、なんていうこともできてしまうんです。ところが、(合唱を含め)クラシック音楽だと、奏者側でそうはいきませんよね。となれば、まず88個全ての音を最良の状態に整えて、楽譜に書かれたことを出来る限り表現できるようにお手伝いする。絵の具とパレットを用意して差し上げるんですね。そういうところに関わることができるのが、私たちの喜びの一つといえると思います。

そもそも、どういうきっかけでこの道を?

父が岩手で県立高校の教師をしていたので、県内を転々として育ちました。両親とも音楽好きで、小さい頃から親に連れられてコンサートに行っていましたし、ピアノも習っていました。小学校では鼓笛隊や合唱に馴染んでいましたが、中学校ではサッカー少年。高校も、サッカーの名門・県立遠野高校を志望しまして、実家を出て下宿生活をして高校に通いました。ところが、上には上がいて、お恥ずかしいですが、こりゃあ自分の実力や体力ではサッカーは無理だなと挫折。音楽室でピアノを弾いていたんです。そうしたら合唱部にスカウトされた。

運動部の男子を一本釣りするというのは、合唱部にありがちなパターンですね。

もう、とにかくユニークで楽しい先生だったんですよ。学校なんかに閉じこもってたらいい音楽など出来んぞ、と釜石の海辺の公民館まで出かけて合宿。福島にFMCっていうすごい合唱団があるから見学に行こう、と先生と有志でキャンプセットを持って行ったりもしました。合宿では、筋トレ、パート練習、合わせ。交代で炊事当番して、夜は「恋ばな」です。今ではちょっと活字にするとまずいようなことも(笑)。先生曰く、「全部、音楽の源なんだ。そもそもオペラの世界は演歌と同じ。喜怒哀楽、清濁、愛憎、わびさび、風の色、なにもかもあってこその”歌”なんだ。」と。

そして当時住んでいた下宿にも、とにかくいろいろな人たちが出入りしていた。そんななかから、「人とかかわりたい」x「音楽」っていう進路が浮かんできたんです。当時はコンピュータ関係の仕事が花形になりつつありましたが、私はコンピュータはだめだな、と思った。やはり「人」がいいんです。実は、迷ったといえば、同じ、人と関わるということで旅行代理店の添乗員も真剣に考えた。でもやはり、学校や家でお世話になった調律師さんの作業姿にも魅了されていましたし、結局、浜松のヤマハで調律を学ぶことになったんです。

調律学校の先生がひとつ、面白いことをおっしゃったのを覚えています。私が岩手出身だと話すと、「岩手の人間ならきっと耳がいいはずだ。お前ら田舎者はそこに自信を持て!」と。都会の暮らしって情報量は豊かだけれど、確かに言われてみれば、私が育ったまわりには、風の音、雪がしんしんと積もる音、霜柱の音。いろいろな音があって、実にイマジネーション豊かな環境だったんですよね。かすかな音に耳を澄ます、という感覚が確かにあった。音に携わる職業として、風土に恵まれていたんだと思います。

卒業後は盛岡の楽器店へ就職。松尾楽器さんに研修に出たりしながら、調律師としての仕事がスタートしました。この業界、調律の仕事に専念する、っていうタイプの職人気質の方も多いですが、私は高校時代の合宿の手配からはじまって、とにかく人の世話が大好きだから、コンサートツアーでも、運転手をやったり、アテンドとかマネージメントといったことも率先してやる。主催者に代わってホールと打ち合わせをしたり。すると、また人とのご縁も増えていくんですよ。

調律師のお仕事のかたわら、沖縄県立芸大で非常勤講師をされているんですね。

ピアノ科の学生に、5日間の集中講義という形で「ピアノ構造学」を教えています。「学」などというと大げさですが、ピアノの構造を知る、ということを通じて、ピアノと仲良くなる、その付き合い方を学ぶ授業です。これも不思議なご縁で、ある時、沖縄の大学のピアノ科の教授と、ピアノと調律師のかかわりについて語っていたら、後日その大学から連絡をいただき、沖縄に来てその話をしてくれないか、と。

少なからずのピアニストは、他の楽器のような「奏者と楽器の関係」が希薄なように思うんです。例えば木管楽器奏者はまず自分でリードを削るし、楽器を分解しますよね。弦楽器だっていつも楽器を弄っています。ピアノって、ある意味完成された楽器でもありますが、調整すべき箇所も無限にあります。そもそも「調律師」という存在が、かえって奏者と楽器の関係を遮っているのかもしれません。楽器は、自分を表現する「道具」です。いきなりバーンと弾き始めるまえに、まず楽器にそっと触れて、「今日はどうしてる?」って話しかけるようなこと、とても大事だと思うんです。

楽器を、本質的な意味で「大切に思う」心って、楽器の主治医としての調律師と奏者との関係の築き方にもいい影響があると思うんです。沖縄のソーキそばの味は、店によっても、食べる人の気持ちや体調によっても変わりますよね。ビーチの風景も、1日のなかで表情が刻一刻変化しています。「今日はこの曲をどう弾こうか?」というときも同じです。私は奏者さんに、「今日のこの楽器ならこういう音であるべき」という自分のレシピを押し付けることはできません。レシピを考える時間を共有して、対話するなかから共通の価値観をみつけていきたいです。楽器を介して、演奏者と調律師がそんな関係を築けたらいいし、音大卒業後に、人にピアノを教える立場になった時には、そういうこともぜひ伝えていってほしい。

2005年にお世話になったとき、会場(京都文化博物館)のピアノは他社の楽器でしたが、半分洒落で「ベーゼンドルファー風(笑)」に調律をしていただきましたよね。面白そうなことを楽しんで付き合ってくださる方にみえたので、つい、そんなご無礼なお願いをしてしまいました。

そうでしたね!あれは楽しかった。あの時のミュージシャンお二人とは、今もご縁が続いています。ところで、何をもって「ベーゼンドルファー風」とするか、という話があったと思いますが、実は、それは人さまざまなんです。音色や弾き心地の感触を変えるというのはいろいろな調整要素の組み合わせですし、受け取る人の感覚もさまざまです。ただ、ひとつ言えるとすれば、自分の中にある、いつものイメージに近づける。自分が毎日食べている味付けとか、お袋の味みたいなものの記憶を頼りに、そこへ近づけていく。あの時もたぶんそんな作業をしたように思います。

 ベーゼンドルファーの味って?

ベーゼンドルファーのピアノが誕生したのは、ベートーヴェンの死の翌年です。ベートーヴェンの32曲のピアノソナタって、表現の書法と楽器の性能とが「抜きつ抜かれつ」の関係で進化していった、っていうことはよく知られていると思いますが、この頃まさにそうだったようで、そもそもベーゼンドルファーは、「あのリストが弾いても壊れなかった頑丈なピアノ」として有名になった(笑)、と言われているんですよ。

かつて宮廷や家庭で弾かれていたピアノが、時代とともに、より大きなホールで、より多くの聴衆の耳に届くよう、大音量でも崩れない構造へ。そしてロマン派から近代にかけての、より複雑な手法の音楽を正確に弾ける、例えば非常に早い連打に耐えられる機構へ。そんな形でピアノが進化していきました。本来、「音量」と「連打の性能」って、構造的には相反する要素だと思うんですが、そこに折り合いをつけつつ、です。

その意味での、まさに完成形といわれる楽器がスタインウェイなのではないでしょうか。一方、ベーゼンドルファーは、かつての宮廷やサロン育ちの性格も一部残した、携帯でいえばガラケー的なキャラクターといえるかも知れません。それが魅力なのかも知れませんね。

ウィーンの本社に研修に行ったときのことですが、自分たちとしては一台でも多く楽器に触って作業して、経験値を増やしたかった。でも工場長は「急ぐな。今日はもう帰れ。」って言うんです。ウィーンの街の生活、そこの音や香り。散歩の時間。コンサート。それらすべてが「ベーゼンドルファーの音」なんだ、と。「それを日本へ持って帰るのが、お前の仕事だよ。」と。

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「コンサート・チューナー」あるいは「コンサート・テクニシャン」。英語の名刺にはそうあります。ホールやレコーディングスタジオのピアノの調律・調整を任される技術者。コンサート現場のプロフェッショナルのお二人ですが、コロナ禍でこの数ヶ月、仕事がぱったりと止まってしまったそうで、今もまだまだ先を見通しにくい状況に。幸か不幸か、そんなわけでお二方とも、予定を大幅に超えて長時間お付き合いくださり、まさに「楽興のひととき」となりました。また、松尾楽器商会、B-tech Japan両社に取材協力をいただきました。どうもありがとうございました。(AYA♂)