「私のレール」

杉並学院高等学校合唱部顧問 渕上貴美子

  私は幼少の頃からよく母にお芝居や映画を見に連れて行かれた。「ファーストシーンが大事」とかじり付くように見ていた母は気がつくと安心したようにぐっすりと眠りの世界へ・・・。「母の分まで」強い使命感の中で必死にスクリーンを見つめる私と母は、いつも大満足で映画館を出て行った。幸せそうに眠っていた母と字幕に追いつくこともできない私の不思議な映画鑑賞であった。小学校3.4年の頃、クリスマスの日に1枚のチラシもらった。教会でクリスマスの劇をやるらしい。劇の記憶は何も残っていないがその時次々歌われた讃美歌には不思議な喜びがあった。そして何より私の横で歌っている女性の美しい歌声は私を虜にし、4年間日曜日の早朝教会へ通うきっかけとなった。

今私は高校で合唱部の指導をしている。しかし私の高校時代、合唱とは無縁の3年間だった。芸術選択は美術。部活動は洋舞部。歌の思い出と言えば文化祭に2人でジャズを踊った時、途中で音声トラブルがあり咄嗟に自分で歌いながら踊ったことくらいだ。将来は医者か獣医になりたかったので必死にその勉強をしていた。そんな私を変えたのはビルギット・ニルソンのワーグナーのオペラだった。同じ人間の声だとは思えないその美しく迫力のある歌声は私の身体の中で何日間も鳴り響いていた。私が歌にのめり込んでいったのは丁度その頃だった。一気に進路変更。音大卒業後本格的にイタリアで勉強し、二期会オペラ研究所で研鑽、リサイタルや演奏会等、毎日歌三昧の生活をしていた。そんな時、産休の為の代行講師募集中の杉並学院高等学校(旧菊華高等学校)に巡り合った。私はすぐに合唱部を創部。初めての外部演奏会は9人で出場した。会場からはパラパラの拍手と「菊華に合唱部なんかあった?」とヒソヒソ話が聞こえた。意気込んで舞台に出ていった生徒の顔とは裏腹に私の目の前には今にも泣きだしそうな生徒が立っていた。私の頑張れの笑顔にしがみつくように歌っていた生徒。次第に会場は静まり歌を聴いてくれているのが手に取るようにわかった。演奏後温かい拍手の中、満足そうに涙をポロポロ溢しながら袖へと歩いて行く生徒の後ろ姿は今でも忘れられない。そんな緊張は生徒だけではなかった。私自身、初めて指揮台に立った時は背中からの観客の視線で手の震えが止まらずただひたすら生徒と歌っていた。そうやって生徒と共に成長していった私はいつの間にか指揮者であることを忘れ、生徒と歌いながらひとつの音楽を創る幸せに満たされていった。

何も知らずに飛び込んだ合唱の世界だが、「何も知らない」ことの恥ずかしさや恐怖より「知っていく」その喜びの方が数倍大きかった。

こんな日々が自然に流れていくと思っていた中の「コロナ感染」。初めて私の生活の中で合唱の毎日がストップした。いつも当たり前に隣にあった「もの」。それら全てに対しての想いがこの半年間で私の中に大きく膨らんでいった。そして半年間の「沈黙」を経て、久々に思いっきり歌った時には全身から燃え上がるような熱いエネルギーを感じた。回り道をしながら「合唱」というレールに辿り着いた私。もう迷うことなく、この先もずっと幸せ一杯に歌いながら走り続けていきたい。