思うこと・・・

東京都合唱連盟顧問・全日本合唱連盟常務理事 片野秀俊

かなり以前の事になるが、都連理事長の職にあった頃「理事長センセのひとりごと」というエッセイを連載していて、それ以来久しぶりの投稿になる。

さて現在都内23区には僅かの区を除いてほとんどに区合唱連盟が存在し、それぞれ独自の活動を展開しているがそのひとつに葛飾区合唱連盟がある。私が27才の時作曲家・仙道作三氏から突然一本の電話があった。当時私は日本合唱協会(日唱)でコンサートマスターになったばかりでかなり忙しかったが、作曲家協議会との仕事も多くそこで面識を持ったのが彼だった。話によれば「この度柴又帝釈天の御本尊が本堂の屋根裏から発見されて200年になる。そこでそれを記念し、200年祭を催したく、それを大々的な音楽記念祭にしたい」との住職・望月翔氏の依頼があって仏教オラトリオの作曲を進めているが合唱も必要であり、その世界は皆無なので是非力を貸して欲しいとの話だった。そこで葛飾・金町近辺の若者達に呼びかけ急遽20名ほどの合唱団を編成し、新作品「インドラ讃歌」初演の運びとなった。会場は、帝釈天本堂、指揮は田中信昭、ソリスト芳野靖夫・片野秀俊とsopが一人だった。住職(「男はつらいよ」(寅さん)に出演していた住職の御子息)はとても音楽に造詣を深く、その200年祭の後是非「この合唱団を継続して欲しい」との達ての依頼で柴又帝釈天付属「ルンビニー(釈迦生誕の地)混声合唱団」が誕生した。当団は順調に成長を続けたが当時葛飾区には連盟がなく小さな合唱団が個々に細々と活動していた。そこで私は当時の団長を説得し、周囲の団に呼びかけやっとの事で「葛飾区合唱連盟」を発足させる事ができ近くの金町駅近くに住む作曲家・小林秀雄先生に依頼し「顧問」に収まって頂いた。当初はかなり古くなっていた区民会館ホールで初めての区民合唱祭を開催し、やがてその跡地には葛飾シンフォニーヒルズが建立されて今日、音楽の力になっている。さて話を始めに戻したい。今現在、全日本合唱連盟は毎年会員数が激減していて私は大いに危惧している。日本の合唱界を隆盛にして行くには何を置いても全国の愛好家の広がりであり繋がりが必要であろう。全日本の直接の下部組織として東京都合唱連盟がある。しかし都内にある23に近い区合唱連盟と都連とのつながりは皆無に等しい。この拙文をお読み頂いた各区の代表的団体の皆さんがお近くの団へお声かけ頂き、わが国の合唱の組織が一般社会から大いなる文化の一端として認識して頂けるよう心から願っている。